相田みつをと
なか川のお話

なか川に多くの作品を残した相田みつを先生。
なか川と相田みつを先生との約五十年に渡る
交流と歴史をご案内します。

相田みつを先生との出逢い

相田みつを先生が作品を持って訪ねたのは、「旅館なか川」時代のこと。戦前、東京・日本橋『高島屋』の裏あたりに居を構えていた中川家は、戦時中に疎開で長野へ。その後、着物関連の仕事をしていた親戚の紹介で足利へ移り住み、「旅館なか川」を始めました。日本橋で育った初代女将・光子は、江戸っ子気質で、羽織の裏地に紋を入れるなど、大変に粋な女将だったといいます。この旅館を始

めたばかりの戦後間もないある日、作品を売って生きていこうと夢を見る相田みつを先生は足利の一流旅館を中心に作品を売り歩きます。しかしながら全く作品・書体に理解を示されず誰も購入してくれません。
全く売れない日々の中、次に相田みつを先生は、「旅館なか川」に作品を持ち込むことになります。

初代女将 中川光子

なか川を訪れ、初代女将を目の前に自分の作品に対する想いを語る相田みつを先生。その言葉に感銘を受けた初代女将光子は

「いいのができたらみんな持っておいで。買ってあげるから」

と、やさしく声をかけました。このなか川初代女将の行動が相田みつを作品を日本で一番最初に認め、購入した人物になるのです。

初のデザイン作品 旅館なか川の看板

その後もなか川以外では全く作品を売ることが出来ず、苦しい生活事情であることを知った中川光子は、

「遠慮しないで、ご飯もいつでも食べてにおいでよ」

そう声をかけました。その時から、相田先生は毎日のようにご飯を食べにくりようになりました。中でも一番好んだ料理は、毎日のようになか川2代目が作っていた「甘露煮」。「日本酒は1日1本まで」という光子との約束を守りながら、その日あったことや作品への熱い思いを甘露煮をつまみに美味しそうに日本酒を嗜んでいました。今でも、甘露煮をはじめ、先日本酒や先生が好んだ料理を「相田みつをオススメ御膳」としてお楽しみいただけます。

なか川でお正月を迎える相田みつを
相田みつをおすすめ御前

相田みつを作品の数々

相田みつを美術館にも貸し出さない未発表作品も展示

相田みつを先生は、作品ができる度に、なか川に持ち込み、多くの作品が旅館に飾られることになりました。みなさんがよくご存じの「人間だもの」は、旅館なか川の応接間に飾られていた作品が 相田みつを先生の代表作となっておりとても嬉しく思っております。初期から中期にかけての作品を中心に相田みつを先生を支えるためになか川が購入したもの多数を季節に応じて作品の展示を変えております。

相田みつを美術館で見る作品など広く知られている作品は実は、昭和50年前後、相田みつを先生としては晩年の作風です。全部ひらがな的な作品のイメージが強い思いますが、コレとは違い、約50年に渡る関わりのあるなか川には初期から中期にかけての相田みつを美術館では見たことないような若き日の珍しい作品が展示されていて少し作風の違いに「これも相田みつを作品?」と驚かれるかと思います。
 
ひらがなで優しい印象の詩や言葉は全国の多くの皆様の心に響いた作品でありますが、若かりし頃の書家時代の力強い作品や書家としての達筆な書体、珍しい初期の落款など【約50年に渡り支え続けた証】としての作品が残っております。相田みつを先生が67年間、作品を作りながら一生を過ごした足利市のなか川までご来店くださいましたら、先生ゆかりの食事をしながら眺めることができます。

応接間に飾られた作品

初の相田みつをデザイン作品

なか川から生まれたみつをのお店のデザイナー時代

まだ、なか川以外ではなかなか作品が売れず、苦しい生活は続きます。なか川も全てを買うことはできません。そこで初代女将 中川光子は、相田みつを先生にできることを考え 

「旅館なか川の看板を書いてみるかい?」

と声をかけました。

当館は一流の旅館ではありません。あえて言うなら二流の上といったところでしょうか?しかしながら接客に関しましては一流を心がけております。亭主敬白

相田みつを先生は東武伊勢崎線足利市駅に旅館なか川の広告看板を任されデザインすることになります。「二流の上」という旅館なか川の看板を。。

初代女将はそれを見て

「へぇ〜上手なもんだね〜。それなら看板だけでなく、次はうちの各部屋に飾る部屋札や箸袋に、マッチ箱なんかもいいねぇ〜。各部屋にちなんだ作品なんかもデザインしなよ!」

と。こうしてなか川は、相田みつを先生の奇妙な字があちこちに存在する旅館になったのです。今でも、先生がデザインした看板やおてもと、マッチ箱など多くの作品がお店で使われいます。

このなか川でのデザインの仕事がきっかけとなり 同じ足利市にある香雲堂本店・虎谷さんの包装紙などのデザインをなか川の後に手掛けることになります。

初のデザイン作品
旅館なか川の看板
旅館なか川の様々なデザインを作成

4代に渡るお付き合い

先生とは家族のような親しい関係が続きます

なか川に作品を持ち込むだけでなく、ご飯も食べにくるようになった相田みつを先生。初代女将中川光子は、「みつをあんた欲しいものあるかい?」と、食事だけでなく生活での欲しいものまで用意するほど。みつを先生の人柄に粋な初代女将がそれほど惚れ込んでいたのだと思います。みつを先生となか川家は家族ぐるみの付き合いに発展していきます。

相田みつを先生にとって最初のアトリエも初代女将がプレゼントしたもの。たくさんの作品を生み出した原点のひとつになります。東京相田みつを美術館には、そのとき「なか川初代女将がプレゼント」したテーブルが現存し今も飾られております。

めん割烹なか川開業時にいただいた作品
3代目の結婚祝いにいただいた作品

3代目泰彦とその姉妹達は、毎日のようにご飯を食べにくる相田みつを先生に実は家庭教師もしてもらっております。相田みつを先生から様々な教え、勉強などを吸収していきます。
長女、晴美が大病して生死の境を漂い、無事退院してきた時に作っていただいだ「いのち尊し」、次女、玲子が受験の時には「一生勉強一生青春」という作品を、お正月には「お正月用のなか川専用の相田みつを作品」、人生のイベントの際には「なか川の家族の作品」など相田みつを美術館では語られることのない足利ならではのエピソードがめん割烹なか川にはたくさん詰まっております。

意外かと思いますが、実は人前で話すのが大好きな相田みつを先生。なか川3代目中川泰彦の結婚式の際にはなんと!結婚式の司会進行まで行っております。

このときも相田みつを先生は、なか川3代目夫婦のために、作品「心」をプレゼントしてくださりました。「心は丸くないとうまくいかないんだよ」というメッセージが込め、丸く書かれた心という相田みつを作品はいまではなか川家を飛び越え相田みつを美術館の公式アプリ「相田みつをの心」にも採用されています。

晩年4代目中川知彦が生まれるころには、作品の執筆だけでなく講演会などもおこなっており、日本中で相田みつを先生の話を聞かれた方が増えました。
 
この若き日の大変だった時代を一切隠すことなく、「なか川のおばあちゃん(初代女将 中川光子)に助けられたんだ」講演会でも隠さず話をする本当に素敵な方でした。「あちこちで初代女将の話を聞いている」と遠方からお越しのお客様がお声かけてくださることもありました。

なか川家の結婚祝いの席で。作品をとともに
司会進行相田みつを先生による
なか川3代目中川泰彦の結婚式の様子

相田先生が亡くなる前、フラリとお店を訪ねたことがありました。その際、4代目(知彦)に向かい何度もこう言いました。

「ともくん、ここが私の出発点なんだから。ここが私の出発点なんだから」

先生が亡くなられた後も、相田みつを美術館に作品を貸したり、テレビ朝日「にんげんだもの相田みつを物語」の舞台として登場したり、今でも関係は続いています。相田みつを先生の軌跡を辿って来店されお客様も多くいらっしゃいます。一声おかけいただけましたら、4代目が相田みつを先生のお話をさせていただきます。お気軽にお声がけください。

4代にわたりお付き合いは続きました

相田みつを先生のお話をさせていただきます

相田みつを先生の軌跡を辿って来店されお客様も多くいらっしゃいます。一声おかけいただけましたら、4代目が相田みつを先生のお話をさせていただきます。お気軽にお声がけください。

まだまだ語り切れない「なか川と相田みつを先生とのお話」をまとめました